5 農業

さかわのお茶通信 ■  さかわ茶探偵、あちこちの図書館に資料をもらう。それから井関と呼ばれた場所のこと。

10月というのはこんなにも残暑厳しいものでしょうか。
とは言え番茶の加工作業に顔を出し、18時を過ぎた頃にはもう辺りは暗く、やっぱり秋なのだとしみじみ感じました。
と先週書いたのですが、今朝は震えています。指先の冷えが冬モードです。

探偵は、黒岩地区の方に尋ねました。「(黒岩地区の)台住辺りにチャエンと呼ばれた場所があったと本で見たのですが、どこか分かりますか」と。そうしましたら、すっと答えが返って来ました。集活センターくろいわを県道沿いに少し西へ向かい、柳瀬川と近づいた辺りが昔チャエンと呼ばれていた場所だそうです。
しかし茶園堂があったかどうかは分からないということでした。

いの町史編さん室だよりに、「(片岡治世下)郷内各地に領民や一般の旅人のために、交通上の要地に茶園堂を建て、旅人に湯茶の接待をさせたという記録が残っている。」という吾北村史の記載を見つけ、図書館ネットワークを頼り、いの町に問い合わせをしました。
古い記述で、中々出典元を辿るのは難しい中、いの町上八川に「さえん」と呼ばれていた場所があり、茶園堂の名残だという口碑が残っていることなどを教えて頂きました。
それを踏まえると、黒岩地区のチャエンは茶園堂であった可能性もなきにしもあらず、というところでございます。

もう一つ地味に気になっているのは挽き茶のことです。
抹茶はその最たるものですが、『皆山集6第一章増補事物終始』にこんな記載があります。
「当国もむかしハ茶を煮といふ事なく家毎に挽茶を製して日用とす今も佐川郷中なとニハ家々古き挽茶臼を持傳ふるを見し二今茶人の用ゆる臼よりハ大ク又糊臼よりハ細し……」
どうも佐川郷では、お茶は煮出すものではなく、挽いて飲むことが主流だったそうな。
津野山では、六蔵茶と呼ばれたお茶が作られていたそうで(現在、その茶の詳細は不明です)、良い茶は出荷、残った茶を挽いて地元で消費していたそうです。(ということは佐川郷でも茶を産出していたのか? と謎が謎を呼びます)
佐川町にもそんな茶臼が、まだどこかに眠っているのでしょうか。

参考資料一覧の既読分がついに70冊を超えました。
手書きを打ち直し見やすくするのが、大変です。

●番茶の時間ですよ。

暑い暑い日差しの元、今年最後の茶摘みが始まりました。

葉っぱは太く、枝まで刈り取るので、茶袋が重くなる。
茶袋を運んでいると、段々サンタクロースの修行をしているような心持ちになってくる

もうそろそろ再萌芽しないだろうという頃に、今年もお疲れ様でしたと伸びた茶の枝をカットします。それを商品にしたものが、いわゆる番茶と呼ばれています。

おまんじゅうのように膨らんだ茶袋が並んでいる

重い茶袋をトラックの荷台に積むのも大変なので、上から荷台に投げるのが山間部のお茶あるある

30キロの袋が積み上げられる、番茶期の風物詩

協力隊期間最後の茶摘み期です。

●さかわの茶畑紹介 ー井関編ー

瑞応寺から柳瀬川沿いに黒岩中心部へ向かう途中、川が大きく蛇行するところに関があります。その辺りを井関と地元の方は呼んでいます。(ユセキと聞こえることもあり、弘岡井筋もヒロオカユスジなので、井をユと読むことがあるのかも気になっているのです)

昔使っていた茶袋だそう。シンプルでいいデザインだと思っている

かつては川向かいから、写真のような光景が見えたそうです。

井関は昭和43~45年、第1次農業構造改善事業で拓かれた茶園です。
山裾の方では転作して生姜やら果樹やらも栽培されていますが、山の上の方では、残る農家は一軒だけ。
今は佐川町内で一番早く芽吹く茶園で、四月になると一番よく新芽の様子を見に行く場所でした。

早生の品種があり、この成長を見守りながら一番茶摘みを待つ

佐川町では中々見掛けない寒冷紗による防霜。ほとんどのところはファンが回っている

半世紀、佐川町で茶を作り続けてきた農家さんからは、たくさんの組合員がいた頃、大型バス3台で研修に行き、宿泊先と近隣の酒屋さんからお酒を飲み尽くした思い出話なども聞かせてもらいました。


いつ見ても茶畑は丁寧に整えられ、職人技を感じ入ります。

最後に、お気に入りの一枚を。